祖父の意識が遠のき、時間の猶予が生まれた
前回、ブログを更新した時はまだ話せた祖父。その二日後、再びお見舞いに行ってみたら、もうずっと寝たままで起きなくなっていた。
次第に死期が近づいている様子だ。何も話さない、寝るだけの祖父を最初に見た時は驚いたが、何度もお見舞いに行くにつれて、段々と慣れてきてしまい、特に何も思わなくなってしまった。
人間、最期はこんなふうなんだ、と思い、祖父よりも自分の疲れに意識が向かうようになっていた。
祖父の意識が遠のいてから、親戚がちらほらお見舞いに来た。最初こそ祖父の姿に驚くも、祖父に声をかけ、親戚同士で昔話に花を咲かせて帰っていく。
最近になって、祖父が突然死ななくてよかったと思うようになってきた。ゆっくりと死に近づいていく、これによって生まれた時間の猶予で、皆が助けられている。
式場の準備、遺影をどうするか、誰を呼ぶか、そういった物理的なものだけでなく、覚悟といった精神的なものを整える時間ができた。
今になって思うのは、祖父が話せるうちに祖父の話を聞いてよかったということ。あまり自分の方からは話さなかった。何を話せばよいのかわからなかったのだ。
でも特に話さなくてよかったと思う。自分が死ぬ間際だったら、生きている人間の話を聞くよりも、自分が気に留めている重要なことを話す方にエネルギーを使いたい。
祖父も全部話して満足したのだろう。